ぼくのスピリチュアル物語 23 「使命」


(「黒住さんからの霊界通信、5通目(1985.3.15)」より)
来るべきものは、来るべき時は、いつか必ずあるものを
その来るべき日を忘れよと言うか
盲(めしい)たる眼(まなこ)よ
その五感にて何をか掴まんとする
その手にて、その手にてのみ生きうるや
盲たる眼よ
いつか来るその日、導き給え
地に下りて地上の肉の暮らしに負くることなく
使命を達する日のことを思え
結集し来るものよ
かの世界にありて働く、かの世界にありて働く
(以上)

今回の通信は、静さんの「註」に頼ることなく、ぼくでも理解できる内容だった。
それにしても「盲(めしい)たる眼(まなこ)」が、死んだ瞬間から、そんなにも視力がよくなるとは、本当にぼくたちの身にまとっている肉体というのは、なんて鈍重なのだろうと思う。

まるで歩きにくい着ぐるみを着て、買い物競争をする自分を想像してしまう。小さな穴から見えるか見えないかの視力で、封筒の中の「宿題」を読み、それをゼイゼイ言いながら懸命に探すみたいな、そんなイメージである。その紙に書いてあることが、言うまでもなく「使命」というわけだ。

ぼくの紙にはどんなことが書いてあるのだろうか。それがわかれば、この世でハッキリとした目標を持ち、それに向かって生きていけるのに、と思う。しかし、その「自分の使命」というのが掴みにくいのである。

そこで、「註」の最後にあった「使命」についての静さんの解釈に頼ってみたい。

(「生命の泉」静さんの註より)
「ここで私たちの使命とは何なのかを考えてみました。それは特別な才能があってそれを生かして何かをする。そういうことだけを指して使命と言っているのではないと思いました。それぞれの人が、それぞれの置かれた場で心つくして懸命に生き、ふれ合う人々に愛の心で接していく。そういう生き方を通してますます愛の心を育み広めてゆく、そのことが、才能のあるなしに拘らず人間としての根本的な使命ではないだろうかと思いました」
(以上)

静さんの「使命の定義」は、「やはり、そこですか!」という感じである。

しかし、「愛の心で接して、ますます愛を育んでいく」とは、なんとキリスト教的な表現だろうと思うのはぼくだけだろうか。意味はなんとなくわかるが、具体的にどう行動するのかが見えてこないのである。もしかして「愛の心」というのは、シルバーバーチが言うところの「利他的」ということだろうか。

さあ、今日も着ぐるみならぬ、鈍重な肉ぐるみを着て、使命探しの一日を生きてみますか(笑)

(つづく)



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