ぼくのスピリチュアル物語 25 「黙」


(「黒住さんからの霊界通信、10通目(1985.5.29)」より)
《友よ、われらにあるものは永遠の生命の希求である。永遠の生命は多彩にしてあるものは“黙”である。寡黙の中に獲得し得るもの、これがわれらにある天上の意識である。真に歩みいく者は多弁ではない。
友よ、永遠の生命の希求は、おのずからなる生命の歩みの中にある。徒(いたず)らなる行動に身を売るなかれ。己が口を売ることなく、己が心身をして神の義に委ねよ。友よ、光りを伝うるものなり。光りを多弁に売ることなかれ》
(以上)

どうやら、「多くを語らず、黙々と真理への道を歩め」、と言っているらしい。

たとえば「ある決意」があって、それを誰にも語らず実行せよということであるが、もし誰かに話すと、賛同してくれる人もいるだろうけれど、反対意見を投げてくる人もいる。その弁によって気がそがれ決意が揺らぐこともあるだろう。そういう理由で「黙」がいいのだろうか。

しかし、誰かに対して決意を口にすることで逃げられない状況の枷をかけて、前に進む力にするという方法もある。期待をかけられたら力が出るというのは誰もが経験することだと思う。

ただ、それは「他力」なのである。

「黙」することは「自力」を意味する、つまり「他者との約束」ではなく、「自分との約束」である。
自分と約束し、約束したことを実現するために、多くを語らず黙々とその道を歩む。こういう生き方は美しい、まるで高倉健である。

あ、だから多くの人は高倉健に憬れるのだろうか?
それはさておき、静さんの意見を聞いてみよう。

(静さんの「註」より)
「生命が永遠であるということは、ただ、頭で観念的に知るというものではなく、自分を深く見つめ、日常の生活を心つくして生きるその中で、魂の中に静かに感得され、希求されてくるものなのであるから、そのことを『われらにあるものは永遠の希求であり、在るものは黙である』と言っているのであろうかと思います。
…(中略)…
それは、この世の喧噪や饒舌の中に見出せるものではなく、黙って自分の置かれた場で、正直に、一生懸命生きるその中で獲得し得るものであると言っているのであろうかと思います。
この様に真理に沿った生き方をしようとする者は多弁ではない。言葉は言霊と言われる程に大切なものであるから、つまらぬ饒舌は慎み、真心をもって語り、天の意に沿わない無益な行動に走って身をほろぼしたりすることのないように。そして、最前をつくしたあとは心身を天の意思に委ねなさい。こうした生き方を実践してゆくことによってこそ、内在の光を発現し、それを他の人に伝えていけるのであって、口先だけで立派なことを言うような、光(真理)を多弁で売るような言動は慎むべきである。言葉はなくても、人の真から真へと光は伝わっていくものである。というような意味ではないかと思います」
(以上)

うしっ、今日からぼくは高倉健になる!

(つづく)



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