ぼくのスピリチュアル物語 39 「呪いの心」


この日の通信は、これまでの中で一番わかりやすく、また、こちらの感覚に近いところで語ってくれている気がした。ぼくなどがごちゃごちゃ言わずに読んでもらいたい。読み手の立場や背景によって、それぞれに必要なものを感じ取ってもらえるのではないかと思う。

(「黒住さんからの霊界通信、23通目(1985.7.6)」より)
《人を呪う心は正に土砂崩れである。何とねばねばしい嫌なエネルギーであることか。まして呪う言葉を声に出した時、相手の五感に訴えて相手の直ぐなるエネルギーを破壊してゆく。良き言葉がどんなに大事なものであるか、言葉は選ぶべきである。その点私共夫婦の場合、まず及第点だったと思っている。
声に出さぬ呪いの思いは、思いの世界に充満し、重く鋭くたちこめて発射する。喜ぶのは同類の世界の者ばかりだ。ここを先途(せんど)と歓喜の声をあげる。いわゆる地上行路を行く者の完全な落とし穴である。呪う思いの界に自分が立つ時、その途端に自分自身はその界にある。発射するエネルギーはその分だけ我が身を切りつける。要するに我が身が鋭く陥(お)ちてゆくという事である。三界を経(へ)めぐる「輪廻」の界というわけである。天上界に意識を合わせ、天上界の流れを流し得るものは何とさわやかではないか。さわやかな歌を歌いつづけるということは心身の開放である。
地上界にあって、歌ばかり歌っていられないという人がいるかもしれない。
この歌という言葉も額面どおりに受け取ってもらっては困る。それぞれの立場でそれぞれに生活することは大変な事だ。大変な事だと必死に取り組む人、良き意味での苦闘の中からの開発、種を播く人、それ自体を歌と称しているだけである。表現が甘いという方々にはお許し願いたい。
簡単なところで言うならば、御婦人方の御料理も手間をかけ努力し、工夫をこらさないとおいしい料理は出来ないだろうし、子育ても大変なら、私の手術だって大変である。第一、引越しだって大変だよ。(霊界移行も含めている)》
(以上)

この内容をなぞった静さんの註も、またさらにわかりやすいのだが、長くなるので今回は割愛しよう。解釈の自由度があった方がいいのである。
註の中で静さんは、黒住さんが語った生前のことに触れている。


(静さんの「註」より)
「最後に、私の手術だって大変であると言っておりますが、生前、唇裂(しんれつ)、口蓋裂症(こうがいれっしょう)、喉頭がん、食道がん、舌がんなど大変な手術に常時かかわっておりましたので、手術だって大変だよとという言葉が出たのもむべなる(仕方ない)かなと思いました。また、大変な引越しを九回も経験しましたので、それにかけて、引越し(霊界移行=死)も大変だよと面白く言っているのだと思います。」
(以上)

死とは引越し、なるほどねと思った。

ドラマなどで、遠くに引っ越していく友だちに会えなくなると子供が泣きながら見送るシーンがよくあるが、死ぬとはそういうことなのかもしれない。お互い生きていれば、メールや電話、手紙、電報で連絡がつくが、霊界に引越しするとそうはいかない。

でも、想念で思いは伝わるわけだから、連絡がつくとも言える。死を「引越し」と考えただけで、すごく楽になっていく自分を感じた。

(つづく)



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