ぼくのスピリチュアル物語 38 「小我と大我」


黒住さんの霊界通信は約二年間に渡り、受信者Yさんを経由して58通届けられたのだが、1、2ヶ月間音信がないこともあれば、一日に複数届いたりしている。今回紹介する、1985年7月5日はその中でも最も多かった日で、4通も届いた。
内容は、霊的真理に関する普遍的なものもあれば、静さんの日常に反応したような内容もある。この4通の中に、二日前に静さんがYさん宅にサクランボを持って行ったことが書かれてあり、静さんは驚いたという。

ぼくたちはガラス張りの箱の中で生活し、向こうはいつもそれをしっかり観察しているのである。一方的に覗き見されてるみたいで「ずるい」気がしないでもないが、そもそも、ずるいずるくないという発想自体が「すべて見せたくない」「格好悪いところは隠したい」「うそも方便」というような意識から去来しているのかもしれない。

あちらは、想念を交換する「ウソのない世界」なのである。
そして、こちらの世界がいかに虚構かというようなことが書かれている箇所がある。

(「黒住さんからの霊界通信、22通目(1985.7.5)」より)
《柱が何本も立っている人はむつかしい。一ぺんその柱を全部取り払ったら、自分が何たるかがわかるのだが、柱の一本づつを丁寧に数えて、柱によりすがって安心している。柱のあることのプライドをくずさない限り、その人達は外なるものに頼って内なるものに依るという意味がわからない》
(以上)

柱、この世的な価値としての、肩書き、経済力、知名度、業績…そんなところだろうか。

(静さんの「註」より)
「柱が何本も立っている人という意味は、自分のまわりに物質とか、地位、財産、名誉といった、いろいろのプライドの柱を何本も立ててそれを丁寧に数え、これだけあれば大丈夫と、それに依りすがって安心している人のことだと思います。こうした外的なものに頼っている限り、内なる真実の力に頼るということの本当の意味がわからない」
(以上)

内なる真実の力…、自分の内側にどんな力があるというのだろう。まったく実感できない。

(「黒住さんからの霊界通信、22通目(1985.7.5)」より)
《小我を脱却し、大我の己れに目覚め、意識が大きく拡がり得る者は幸いである。
真に天地は見えざる経をくりかえしつつの歌のごとく、大きなことを訓(おし)えているのだが…、眼の暗いというのは全くどうしようもない。(眼科医になればよかった)フザケ
人それぞれの意識の中に住んで、ほうかむりをしているわけだが、大我に根ざしたらどんなに楽になることだろう》

(静さんの「註」より)
「あなた達の中には神が在ますのである。そのことを自覚し、その大いなる力を開発し、その力を信じてやってゆきなさい。これが即ち、小我を脱却し大我の己れに目覚めるということであり、このように意識が大きく拡がってゆくことの出来る者は本当に幸せである。大我に根ざした生き方をしたならば、どんなに心が楽になることだろう」

小我を脱却し、楽になる大我に根ざした生き方…、あっ!

ここ半年くらい、ほとんど口をきいていないウチの社長が頭の中に浮かび上がってきた。社長との関係が苦しいというわけではないが、なんとなく、お互いスッキリ納得しないまま、毎日別々の布団で寝ている夫婦みたいになっている。(←少々気持ち悪い表現だが…)

大我に根ざすと、社長のことが許せるだろうか。満面の笑みで「おはようございます」と言えるだろうか。しかし、笑顔で返されても困る気がする。ああ、なぜ素直になれない。

こんなことに拘っていること自体、小我のような気がする。

(つづく)



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