ぼくのスピリチュアル物語 35 「写経」


自分の中の原点を見つめ直そうと何となく行き先も決めずに書き始めた『ぼくスピ』であるが、知らぬうちに20年近くほとんど読まずに放っておいた黒住さんからの霊界通信『生命(いのち)の泉』を少しづつ書き写してはチャチャを添えるという展開になっている。

書き写すという作業をやって思うのだが、ただ読むだけではわからなかったことがほんの少しであるがわかるような気がするのである。文脈として意味がわからなくとも、発信者(この場合、黒住さんだが)が生み出した同じ表現をトレースしていくことによって、その息遣いというか、思考回路というか、そういったものが身体の中に入り込んでくる感じがするのである。

文章にもその書き手の周波数が宿っていて、書き写すとき、二次的に同じ世界を覗くことで共鳴作用、同調作用が生まれるのかも知れない。

だからといって、黒住さんのやや難解な文章の意味が細部まで理解できるというわけではない。いつも書き写しながら、黒住さんはどうやら高級霊みたいだし、こっちの世界にいたときは優秀なドクターだったんでしょ、頭いいんでしょ、だったらもっとわかりやすく書けるんじゃないの、手抜いてない? などと念を送ってたりするのも事実である。

というわけで、今日も黒住先生の難解な通信を心をこめて書き写させていただきました。ぼくにとって、もはやこれは写経修行と思っている。

(「黒住さんからの霊界通信、19通目(1985.7.5)」より)
《ほらごらんなさい、凛然とした声があなたの中から出て受け答えしている。その時のあなたの意識は、相手に向って集中し、無意識に自分自身なるものを打ち出しています。あなたはその時、意識せずとも自分の中に流れ入って来る其のエネルギー、己れの其の界と道交し、振動し、己が生命の働きが打ち出ている事に無上のよろこびを感じています。それがあなた自身というものです。人ではない、そして己れが惨めなもの、日陰の立場に立たされしもの、脇に押しやられ、そして生命を押しつぶされようとした被支配、被搾取の立場に立たされて尚、己れの己れたる事にあるその己れに由来するもの、今のあなたの相手に対するあなたの発声、話しながらその時の瞬間的な自意識の自覚の驚き、それそこが揺るがざるあなたの本体のひびきそのものに外ならない。三次元の世界において、どの立場にあってもそれが基調となるものです。己れは己れだ。あなただけでなく、これはすべての人、すべての人の立場に当てはまる事である》
(以上)

《無意識のうちに自分自身なるものを打ち出していて、その時、生命の働きが打ち出ていることに無上のよろこびを感じている》という部分、なんかわかるような気がした。

誰かと話していて、自分の考えだと思って話しているのだが、「あ、ぼく、いま凄いイイこと言ってねえ?」とか思う瞬間、「ぼくって天才?」と嬉しくなることがあるが、あの感覚だろうか。違うかな。

ちょっと、静さんの意見を聞かせてくださいよ。

(静さんの「註」より)
「『あなた自身』とか『己れに由来するもの』とか『己れは己れだ』と、いろいろ『己れ』ということについて述べてありますが、ここで言っている『己れ』という意味は、単なる自分というような軽い意味ではなく、自分の中に流れ入って来る天からのエネルギーと感応し、共振している本来の己れ(真実の私)という意味だと思います。それは表面的な肉体的な意味における『己れ』ではない。たとえ惨めな、日陰の立場に立たされ、脇に押しやられ、生命を押しつぶされるように支配され、搾取される立場に立たされても、生命の本質は決して犯されることはない。そのような、厳然たる『己れ』という意味だと思います。これこそ、三次元世界において、どのような立場にあっても基調となるべき『己れ』『私』なのであり、これはすべての人に当てはまる事柄であると、人間存在の尊厳性を強く訴えております。
(以上)

なるほど、静さんはそのへんに興味をお持ちになったのですね。同じ文章を読んでも、人によって焦点を当てるところが違うのである。どちらが正しくて、どちらが間違っているということもないのである。当たり前といえば当たり前である。

どこに興味をもつか、個性って、そういうことなのだろうか?

(つづく)



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