ぼくのスピリチュアル物語 34 「さかさ」


『シルバーバーチの霊訓』によると「死」はこちらでは悲しい出来事だが、あちらでは鈍重な肉体の呪縛から解き放たれる喜ばしいこと、とある。

しかし、こちらで生きている身としては、この真逆の価値観を「はいそうですか」と受け入れることはなかなか難しい。

ただ、そこんところが実感として理解できれば、価値観つまりは考え方がガラリと大きく変わり、多くの悩みや疑問が融解し、それにともない言動の選択が変わり、その経験が魂の向上に繋がるのだろうと思う。

黒住さんも通信の中で、そんな価値観の違いを伝えてきてくれているのだが…。

(「黒住さんからの霊界通信、18通目(1985.7.2)」より)
《御冥福など祈っていらないよ、というわけで、あの時、あなたの御冥福をお祈り致しますの言葉に対して笑ったわけですよ。おかしくなったものだから。すでに天界のひびきを知り、人々にその副音を伝えんとする人達は、自分自身に御冥福をわざわざ頂くことをとりわけて望みません。こちらの界にあって、さかさに御冥福を一生懸命お祈りしているわけですから。事はさかさになっています。
何もかもよくおわかりでしょう。される事を願う人ではなく、して差し上げる霊人たることが、大きな霊の魂の自然の働きなのであります》
(以上)

霊界でも笑ったりするんだあ、と思った。嘆いたり、ときには怒ったりもするのかな。そう考えると霊界もどこか同じような気がして、親しみが湧いてくる。
ただ…
価値観が「さかさ」だと、喜ぶべきところを悲しんだり、悲しむべきところを喜んだりと、こちらの様子がさぞ滑稽に見えてることだろうと思う。

さかさ、ねえ。

悲しみと喜び、希望と絶望、幸運と不運、試練と成長…、
頭でわかっちゃいるが、なかなかねえというのが本音である。
こちらでは、人が亡くなったとき御冥福を笑えるわけがないのである。

(静さんの「註」より)
「ある日、Yさんと私が電話で話していたとき、Yさんが「御主人の御冥福をお祈りしています」と話された途端に、
『あっ、今、御主人が笑いながらここに現れられた』と言われたのです。
そのときのことを指して、「おかしくなったから笑ったわけですよ」と言っているのだと思います。
私が私がと、常に自己中心の考えであれば、自分に何かをしてもらうことをまず願うわけですが、霊性が進化するにつれ、自分というものが段々なくなってくると、他を愛したい、他の人に奉仕したいというように、意識が序々に大きく広がって来る。そうなることが魂の自然の働きなのです。だから私はこちらの界にあって、あなた達の御冥福を一生懸命お祈りしているわけなのですと、少々ふざけて言っております」
(以上)

霊界通信なのに、ふざけてるんかいっ!(笑)
しかし、ユーモアを交えて伝えてくれる、そんな黒住さんがぼくは大好きである。

最後の方に、利己的よりも利他的がよろしい、という内容がある。これは素直に受け入れたいと思う。ぼくも日常の中でできるだけ実践しようと心がけているつもりである。いまのぼくに魂の修行ができるとしたら、日々の暮らしの中で利己的よりも利他的な小さな選択をすることだと思っている。

不思議なもので、そう心がけるようになってから、当初あったそれにともなう「損得感」や「不満感」が徐々に薄らいできているように思う。出来ていないところも多々あるが、少しづつ良い方向へと生き出したぼくに、霊界からのご褒美、支援があるのだろうか。
おっと、見返りを求めてはいけない。これだからダメなのである。

(つづく)



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