ぼくのスピリチュアル物語 19 「黒住さん」


『生命の泉』に記録された58通の黒住さんからの霊界通信、これからそのいくつかを紹介していこうと思うが、その前に、黒住さんという人の個性に触れておくことは通信内容を理解する上で重要であると思う。

黒住さんは1916年(大正5年)8月3日生まれ。
岡山医科大学卒業後、岡山大学、広島赤十字病院等の勤務を経て、47歳から15年間、広島大学医学部耳鼻咽喉科学教授を勤めた。定年2年前の62歳のとき、大学を辞して、新しく開設された広島県立身体障害者リハビリテーションセンターへ赴任し、初代所長として障害者福祉に情熱を傾けた。

35年間連れ添った静さんは、妻の目から見た黒住さんをこう語っている。

(『生命の泉』の「生前のこと」より)
「若い頃の夫は、キリスト教徒ということでよく教会へ行っておりましたが、彼なりに考えるところがあって、後年は教会へ行くことなく、日々の生活の中で神への畏敬と感謝の思いを実践していこうと心がけていたようです。あまり一宗一派のドグマ(宗派独自の教理・教義)に固執することない大らかな考えを持っており、キリスト教について何も知らない私に対しても、説教がましいことや押しつけ、独善、排他的なことなど一切口にせず、私の自由意志を尊重してくれました。
また、彼自身は、世間的な肩書きとか、地位、名誉、財産、学歴などには無頓着であり、また宗教のあるなしにかかわらず、真面目に生き、黙って努力する謙虚で心優しい人を尊敬していたようでありました。」

また静さんは、黒住さんが医師という仕事について、どのような考えをもっていたかにも触れている。

(『生命の泉』の「生前のこと」より)
「医師という職業に対しては、自分に課せられた天職としての誇りと自覚を持って精進と努力を重ねておりました。しかし、死と向き合った極限状態の患者さんに接する機会が多く、自分としてどうあることが相手の心を真に慰め、勇気づけ、励ますことになるのだろうかという課題は、いつも頭から離れないことのようでした。私に対してもそうした医師としての苦しい気持ちをよく話しておりましたが、二人とも未熟な故に、よき答が見つからないまま、ただ悩むばかりの有様でした」

医師としての苦悩は、黒住さんが残した文章の中にも見て取れる。

(黒住さんの随想集『柊(ひいらぎ)』より)
「きょうも私は余命いくばくもないであろう患者を回診する。私の目の前の衰えた人は、どう考えて生を終えようとしているのであろうか。限られた時間の貴さは、誰にとっても同じである。
だまし続け、気休めのことをいって、残り少ない時間であることを、まだ何か為し得る時期に知らせておかなくていいのだろうか。“何か為し得ること”…それは世のため、人のためのことでなくてもいい。家族のためのことでなくてもいい。自分自身の心のためにである。
私はある種の“めまい”を覚えて病室を立ち去る。
……(中略)……
良心的に医療を行い、医学の限界を嘆き、患者をいとおしいと思うにとどまっていて、それでよいのであろうか。患者の治療は疾患の治療だけではないはずである。
とはいえ、今の私に何が出来るであろうか。死に取り組む患者の、その限られた時間を、精神的に豊かにするのに、どれだけの手助けが出来るであろうか。
自分は衰えた患者にいかに接するか、真正面から取り組んだことがあるだろうか。そして、それより前に、自分自身の問題として、生と死の意義に対決しなければならぬと今更のように反省する」

黒住さんの苦悩を紹介した静さんはこう続ける。

(『生命の泉』の「生前のこと」より)
「これらの生前の文章を読んでおりますと、霊界通信の背景には、夫のこうした深い自省と真情がかくされているように思えてなりません。自分が死者となってみて絶対的確信を得た生命の永遠性を、これから死に行く多くの人々にどうしても訴えたかったのであろうと心から思うのです」

そんな黒住さんの思いから発信された文語調で少々難解な霊界通信、その解読を次回から試みてみたいと思う。

(つづく)



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