ぼくのスピリチュアル物語 37 「トラップ」


(「黒住さんからの霊界通信、21通目(1985.7.5)より」)
《何べんでも言っている通り、働きかけは誰にでも及んでいるのである。こうして出る言葉を知る者のみが知る特権を持っていると思ったら大間違いである。真心は天より来る。自分が選ばれし者と思うことを私は嫌う。あなた自身も、もっとも嫌うことである。そう いう立場に立たされ、立つことをあなたは恐れる》
(以上)

ぼくたちが「選ばれし者」と考えてしまう動機には、「優越感に酔いたい」という無意識の願望があるのだと思う。これがクセモノなのである。

他者より優れている、恵まれていると考えることで、「優越感」という波動に支配される。これに支配されると心に余裕ができたような気になり、他者を見る目線が知らないうちに上がっていくのである。

「優越感」の対極には「劣等感」がある。「劣等感」という波動に支配されると、見上げる目線の「羨み」や目線が下がる「卑屈」となる。

どの波動に支配されるかで、こんなにも肉体を持つ心には影響が違うのである。これらはすべて肉を着ているがゆえ起きるのだと思う。

黒住さんは、それこそがぼくたちが陥りやすい落とし穴であり、人生のいたるところに張り巡らされたトラップなのだと教えてくれている。

(静さんの「註」より)
「通信の中の『自分が選ばれし者と思うことを私は嫌う』という言葉は黒住らしいと思いました。自分は選ばれているとか、才能があるとか、恵まれているとかいうように、自分だけを何か特別人よりすぐれたものとする高ぶりを生前嫌っていましたので、黒住の言いそうな言葉だと思うのです。
黒住自身、医師、教師という立場上みんなから大切に扱われ、それでつい、えらくなったような錯覚を起こし勝ちだから、常時試しの時だと自省しておりました。
人間はその本質において、みんな平等に神の子であり、選ばれているもいないもないわけですし、またたとえ才能に恵まれていたとしても、それすら与えられているものですから、責任を感じこそすれ、自慢に思う筋合いのものではないと思います。人間存在それ自体が、根本的に自分の力によるものではなく、自分を超えた大いなるものに生かされて存在(あ)るのだということをよくよく心したいと思いました」
(以上)

人生に張り巡らされたトラップをかいくぐりながら、様々な波動の肉体への侵入と戦いながら、ぼくたちは毎日を生きていく。魂の成長というゴールに向って…。

さて、次にぼくに訪れるのはどんなトラップだろうか。ぼくは、そのトラップを瞬時に見抜き、華麗にやり過ごすことができるだろうか。そこに面白さを見つけたとき、これはまさに人生ゲームとなる。それは、他者に戦い勝つゲームではない。戦う相手は、隣人でも他国でもなく、自分自身である。

常時試しの時、この言葉を胸に刻もう。

(つづく)



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