私はなぜ「お礼」を受け取らないのか?


今回は、私がなぜ「霊的真理」に関しての皆さんからの「お礼」の言葉、「感謝」の言葉を受け取らないのかについて、今まで詳しく説明していませんでしたので、その事について書いていきたいと思います。

皆さんの中には、私やシルバーバーチが、皆さんから「感謝」の言葉を言われる毎に、過剰とも言える拒否反応を示すのを、それは余りにナイーブであり、やり過ぎではないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、それは私やシルバーバーチが「感謝の言葉を受け取る事」が、どれだけ世の中にとって「危険な行為」であるのかを、十分悟っているからなのです。

もちろん、「感謝の言葉」そのものはとても素晴らしい物であり、ありがたい物です。

だからこそ、私達が感謝の言葉を受け取る事は、「とっても危険な行為」なのです。



それはなぜか?



「霊的真理」は大霊(創造主)が創造した物であり、私やシルバーバーチは「霊的真理」を創造した訳では無く、マウスピース(伝道)をしているに過ぎません。

あなたがマウスピースに「感謝」の言葉を言う事は、あなたが有名なパティシエの作ったスイーツをネットで注文して食べた時に、その「味」に対し「宅配業者」にお礼を言ってしまっているような物なのです。

「宅配業者」は絶対に、スイーツの「味」のお礼を受け取ってはいけません。

それはなぜかと言うと、全ての堕落した思想、組織、グループ、宗教は、マウスピースに対し「感謝」の言葉を言ってしまった、又はマウスピース自身が「感謝」の言葉を受け取ってしまった事から始まっているからです。

堕落には、マウスピース自身が堕落するケース(新興宗教等に多い)と、マウスピースの死後、周りの人々が誤解、曲解するケース(キリスト教や仏教等)の2種類があります。

まず、マウスピース自身が堕落するケースですが、マウスピースが「霊的真理」のお礼を受け取る事は、マウスピースの慢心に繋がります。

逆に言えば、「感謝」の言葉を平気で受け取るようなマウスピース、「先生」「教祖様」「神様」と言われていい気になり、それを否定しないマウスピースは、堕落する可能性のある「要注意人物」であるとも言えます。

マウスピースの死後、周りの人々が誤解、曲解するケースでは、マウスピースに感謝を向ける行為が、100年後、1000年後の人々に、マウスピースやその意志を受け継いだ者が大霊自身であるかのような誤解、曲解を生む原因となり、正に人類はその過ちを繰り返して来ました。(私は今から100年後、1000年後の事も考えて行動しています。)

現在の宗教界では、町の「宅配業者」が、なぜか皆「パティシエ気取り」です。

「宅配業者」が荷物を配達するのに、なんで金をかけまくった教会や寺院、高価な宝石を散りばめた法衣、煌びやかな袈裟が必要なのでしょうか?(そのお金を慈善に使っていれば、一体どれだけの人々の命が救えた事か…)

これは「宅配業者」が自分を「パティシエ」であると勘違いしてしまった、大変恥ずべき行為の結果です。

ナザレのイエスは、自分が「先生」と呼ばれる度に、「私を先生と呼ぶのは辞めて下さい!」と、繰り返し自分が「先生」ではない事を訴え続けました。

ガウタマ・シッダールタは、道端に落ちていたボロ布を体に纏っていたのです。

それは、2人共自分が「宅配業者」に過ぎない事を十分悟っていたからです。(それが、後世の人達の誤解、曲解のせいで、2人共神様に祀り上げられてしまいました。)

マウスピースや後世の人達がこういった間違った方向に行かない為にも、マウスピースは自分自身を厳しく戒め、「感謝」の言葉を絶対に受け取らないという姿勢を保つ事が重要なのです。



それでは、皆さんが感謝の気持ちを表したい場合は、どうすればよいのか?

周りがシルバーバーチを読んでいる方ばかりの場では、「大霊に感謝します」でも全然構わない訳ですが、これはTPOを弁えないと、アブない人だと思われてしまう可能性があります。

そこで私は、それに「出会わせてくれた存在」に対してという意味で、「出会い」に対し感謝する事を提唱いたします。

そう、「私」に対してではなく、「出会い」に対して感謝して欲しいのです。

「〜に対し、その出会いに感謝します」

「〜という言葉に出会えた事に感謝します」

そう言って頂ければ、私も含め、マウスピースが堕落して間違った方向へ行ってしまう事や、今から100年後、1000年後の人々が現代の「宅配業者」を「パティシエ」と誤解、曲解してしまう事を少しでも防止出来るのではないかと思うのです。 



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