ぼくのスピリチュアル物語 41 「手紙」


日本列島をゆっくりと縦断し、各地に被害を出しながら北上していった台風15号を西から追うように、ぼくは深夜バスで広島から東京へと向った。老い先短い母と対面したり、「百番目のサル」を訪問したりと、スピリチュアルな波動に包まれた世界から現実へと、長〜い長〜いトンネルを抜けるようだった。

そして、予定よりも3時間長い12時間のトンネルを抜けて、物質主義の象徴とも言える超高層ビルが建ち並ぶ新宿西口に降り立った。

その瞬間から、ぼくは再び押し寄せる仕事の波に飲み込まれていった。時間に追われ、知らず知らずのうちに、ぼくの意識は仕事をこなすことだけに向けられていた。

そんなある日、一人だけ居残った深夜のオフィスで、仕事の手を止め短い瞑想をした。後回しにしている大切なことを思い出し、ぼくは静さんに手紙を書き始めた。

(「静さんへの手紙」より)
「黒住 静 様
たいへんご無沙汰しております。
初めてお目にかかったのが1991年の秋ですので20年も前になりますが、覚えていらっしゃるでしょうか?
月日の経つのは早いものです。年賀状のやりとりもいつからか途絶え、静さんがどうしていらっしゃるか時折、気になっていましたが、日々の生活に追われ、相当の歳月ご無沙汰してしまいました。
再び、こうしてお便りを差し上げることができたのは、現住所を「百番目のサル」の蓮池さんからお聞きしたからです。広島から転出され東京にいらっしゃると知り、とても驚きました。
「百番目のサル」は、20年前に広島の友人に連れられてたった一度だけ行ったことがあるお店なのですが…
そのたった一度の訪問が、その後のぼくの人生に大きく影響していると言わざるを得ません。それは言うまでもなく、静さんの書かれた『或る少女への手紙』との出会いです。
ちょうどその頃に興味をもっていた内容だったので、すぐに静さんにご連絡をさせていただき、お目にかかりました。
そのとき聞いたご主人からの霊界通信のこと、そして、それを取材したフリールポライターの平野さんの雑誌記事、またその後に、静さんから送っていただいた『生命の泉』、このような順を経て、ごく自然にシルバーバーチに辿り着きました。

20年前、ぼくの身の回りにはシルバーバーチや死後の世界などについて話せる人がほとんどいなく、また、ちょうど子育ての忙しい時期にあり、徐々にその興味が薄れ、やがて頭の片隅に残しながらも積極的に関わらなくなりました。そして気がつくと、20年…

しかし、世の中の流れもだんだんと変わり、インターネットで同じ趣味趣向の人が繋がることが容易になり、あるコミュニティサイト(mixi)に「シルバーバーチ・コミュ」というのを見つけ、数年前からそのサイトで知り合った仲間と、スピリチュアルなことについて意見交換するようになりました。20年前に静さんから頂いた種がやっと芽を出したのです。

現在はテレビでシルバーバーチが紹介されたり、ネットで多くの人がスピリチュアルなことを普通に語り合ったりする時代になり、霊的真理に向って覚醒する人が少しづつ増えてきているのではないかと思っています。

とは言うものの、周りを見渡しても、まだまだ「死んだら何にもなくなる」などと思っている人が大半です。

ぼく自身も、シルバーバーチや黒住さんの霊界通信から多くを学ぶものの、死んだらどうなるのかということについて頭で理解しているつもりでも、「魂の死後存続」を完全には実感できているとは言えません。

ただ、シルバーバーチの霊訓や黒住さんの霊界通信を指針に日々送っていますと、少なからず良い方向に向っているという実感は確実にあります。
(中略)
思いつくままに書き、まとまりがなく申し訳ありません。
静さんの近況など、お知らせいただけると幸いです。」
(以上)

仕事に追われ、安定を欠いていたぼくの波動は、静さんに手紙を書くことで平静を取り戻した。
黒住さんが通信の中でよく言っている『天上に意識をあわせよ』というのは、こういうことなのかもしれないと思った。

投函して一週間、ぼくは静さんからの返信をキリンのように首を長〜くして待っている。
(つづく)



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