ぼくのスピリチュアル物語 11 「記者会見」


1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で、「遺書」は全部で5通発見されたらしい。その中で、もっとも字数が多く、家族への思いを緊張感をもって伝えている河口博次さんの「遺書」が全国で反響を呼んだ。

マスコミの矛先は、その残された家族である慶子さんに向けられた。そして注目される中、慶子さんの記者会見という運びになったのである。テレビカメラの前に現れた慶子さんは、それまで連日放映されていた嘆き悲しむ遺族の姿とはどこか違った表情だったと多くの人が感じたらしい。

群馬県藤岡高校の体育館で慶子さんの記者会見が行われた。フラッシュの洪水を受けながら慶子さんは毅然とした表情でこう語った。

(河口慶子さんの記者会見より)
「主人が事故に遭いましたのは、主人の運命だと思います。私どもがこのような悲しみを受けるのも、私たちの運命だと思います」

このときの印象をルポライターの平野勝巳さんは、ルポルタージュの中でこう書いている。

(「月刊公論」1991年8月号より)
「この慶子さんの言葉を僕も覚えていた。当時、新聞記者として事故現場に入り、藤岡市役所で犠牲者の確認発表を待ち、藤岡工業高校の体育館で遺体確認をする遺族をつかまえて談話を取り、上野村役場で今後の対策をどうするのかなどという取材を続けていたさなか、どこかで見たテレビの記憶だろう。」
…(中略)…
「自分の身内と自分自身に降りかかった悲劇を<運命>として引き受けることは断じてできない人々と、それを引き受けてしまう人。その差を<気の持ちよう>ということで済ましてしまう人もいよう。
しかし、その間にはとてつもなく大きな乖離(かいり)が存在しているように僕には思える。その乖離は一体、いかにして生まれるものなのだろうか」

平野さんはその疑問に導かれるように、事故から6年経った慶子さんへ取材を申し入れ、自宅を訪ねた。そこで平野さんに慶子さんは記者会見の時の気持ちを思い出して語った。

(「月刊公論」1991年8月号より)
「別に気丈でいようとか、取り乱してはいけない、と自制する気持ちはまったくありませんでした。同じような経験をすればお分かりになるでしょうが、あのような状態でそんなことを考える余裕なんてありません。ただ、無我夢中で心の中で思っていることをそのまま言っただけです。なにしろものすごい騒ぎだったのですから」

そして、平野さんはこの訪問取材で、悲劇の渦中で慶子さんを支えていたものが何であったのかのヒントを得た。それは、慶子さんがご主人の葬儀の参列者千九百人、事故後に知り合った人六百人、計二千五百人に贈った一冊の本にあった。

(つづく)



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